顔写真 いまをいきる
曽和利光
元オカルト少年。現リアリスト。しかしロマン派の29歳。祖父と一緒にUFOの目撃経験あり。
仕事は怪しげな人事関連のコンサルティング。 将来は坊さんになりたい、仏教ファン。
「昨日や明日のためでなく今を生きる」を合言葉に、 刹那的に飲み歩く毎日・・・たぶん今日も二日酔い。
 


第24回・群れと個体


昔、水族館でイワシの群れを見て、なんだか気分が悪くなったことがある。円筒上の細長い水槽にイワシが多量にいて、それらが一方向にずーっと泳いでいる。近寄って見ると個々のイワシ達の個性(?)も多少は感じるので(大きいとか小さいとか目がでかいとかあごが長いとか)彼らがそれぞれ何かを考えながら自由意志で泳いでいるようにも見えなくもない。
しかし、遠目で見ると「イワシの群れ」という一つの存在がぐるぐるまわっているという印象を持った。個々のイワシが主体的に行っているように見える判断は、結局のところ全体の統一感を破壊することはない。それどころか全体からの要請で自分の役割を演じているだけに思えた。彼らは自由意志の錯覚(おれは自由に海を泳いでいるのだ!)に陥りながら、実のところは全体の「意志」にしたがっているだけの部分なのである。

ところがその「イワシの群れ」という「全体」も実は水族館の「一部分」であることにすぐ気づく。どこかの水族館設計者がデザインした水族館というシステムの一部であり、「日本近海」というコーナーであるイメージを見せるという役割を負って存在している。
そして水族館はさらに社会教育施設の一部としてそれが存在している都市のシステムの中である役割を要請され演じている。
そしてその都市は日本という国家システムの中である役割を・・・そして地球は太陽系の・・・太陽系は銀河系の・・・と繰り返しイメージの転変がぼくの頭の中に起こった。そして気持ちが悪くなった(なーんちゃって)。

またこれは逆にミクロの方向に転ずることもできる。ぼくという人間は目とか鼻とか手とか心臓とか胃腸とかそいういういろいろな部分からなる一つのシステムである。また心臓も心細胞からなり、細胞はミトコンドリアとかなんとかからなり、ミトコンドリアはたんぱく質からなり、たんぱく質は・・・。結局すべてのシステムはなんらかのシステムの下位システムであり、また上位システムでもあるということである。

この連鎖は永遠に続きそうに見える。
が、そうだとしたら、どのシステムのどの段階に『意識』という現象が生じるのだろうか。いまぼくは素朴にぼくという階層での『意識』の存在を確信しており、自分の行為の多くは自分の自由意志から端を発するものであると信じているが、実はぼくの上位のシステムである株式会社○○や○○課の『意識』とか、下位のシステムである爪や盲腸の『意識』などによってある種、予定調和的に決定されているだけなのではないか。
つまり、人間という階層で生じた現象がすべて人間という階層でのことだけによって説明され尽くすことはなく、真の要因はその人を包む人間関係であったり、その人の循環器系システムの問題であったり、するということである。

こんなの当たり前だと思われるだろうが、結構日常では見過ごされているように思う。
これまた昔、所属していた会社のある部署で新人がすぐ辞めることが問題となった。その社員の持つ性格だとかモチベーションだとかそういうことが問題ではないかということで、採用を担当していた私たちに責任の目を向けられたのだが、辞めようとしている新人社員にヒアリングをしたのだがどうもよくわからない。個人として取り出したとき、それほど問題のある人にはやはり思えなかったのである。
そこでその人の所属する部署の人に片っ端からヒアリングをしていったところ、その部署自体が疲弊していたことがわかった。仕事量に比してマネジャーの数が少なく、日々メンバーに目が回らなかったり、監視が届かないのをいいことに、古株の社員達と若手社員達とが反目しあっていたり。
結局思ったのは、「問題社員」自身に問題があるというよりは、「問題社員」を取り囲む部署に存在する数々の疲弊のひずみが、その「問題社員」に集中しているのではということであった。「問題社員」は新人であったり優しい性格であったりひずみを受けやすい理由が個人のレベルでもあったかもしれないのだが、本質的なところは彼が一部であるところのシステムの問題であったのである。その後、マネジャーが兼務していた「余分な」仕事を減らしマネジメントにさける時間を増やしたり、古株と若手社員のグループの間を取り持つような社員の異動を行ったりした。すると嘘のように定着率がよくなっていったのである(多少誇張あり)。

こんなことはいくらでもあると思う。
昔、とある警察で非行少年の心理判定をしていたことがあるのだが(もぐりで)、少年の非行が実は両親の不和をなんとかつなぎとめる「かすがい」の役割のように見えることもあった。
この場合、少年が非行でも起こさなければ、その両親は力を合わせて共同作業をすることなどないのであろう。またごく最近では明石の花火大会での歩道橋の上に人の群れが押し寄せ、数名が圧死するという悲惨な事故があったが、あれにしてもあの歩道橋の個々の人々の誰が「人を押しつぶしてやろう」などと考えていようか。個々には逃げ出したい、行きたい、怖い、暑い、痛いなどと考えて行動していただけであろうが、結果としては「人の群れ」が人を押しつぶしてしまったのだ。歩道橋の中にいた人はそれこそ「どうしようもなかった」と思う。事故の原因は「群れ」の意志=システム(警備・導線・その日の人出・気温等々)にあるのであろう。

 だらだらと勝手なことを述べてきたが、結局思うのは人間は全体の一部分なんだなあということである。それは所属する群れ=組織の一部という意味でもあるし、人類の一部であるという意味でもあるし、動物の一部であるという意味でもあるし、大いなる「存在」の一部という意味でもある。そしてそれぞれの階層から個々の人間は役割を要請されて、知らず知らずのうちに(あるいは自らやろうと思ったとさえ錯覚して)その役割を演じているのである。「自由な意志」という概念は法的・社会的な意味においては大切な概念であると思うが、しかし本当に個々人の行動の原因としての自由意志を探しても、どこにも見つからないのがおちなのではないだろうかとさえ思ってしまう。ぼくらもあのイワシのように「自分の意志」で自分の行動を微調整しながら、結局は人生の水槽をぐるぐるまわっているだけなのかもしれない。



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