顔写真 いまをいきる
曽和利光
元オカルト少年。現リアリスト。しかしロマン派の29歳。祖父と一緒にUFOの目撃経験あり。
仕事は怪しげな人事関連のコンサルティング。 将来は坊さんになりたい、仏教ファン。
「昨日や明日のためでなく今を生きる」を合言葉に、 刹那的に飲み歩く毎日・・・たぶん今日も二日酔い。
 


第18回・いのせんと・わーるど


 なんのために人を好きになるのか。そんなにまで好きになったとしてその先に何があるというのだろうか。ぼくは「好き」というのは利己的な行為だというテーマで前にここで書いたことがあるが、仮にそうだとしても、身をすり減らして命を削って人を好きになっていくことの究極的な目標はなんなのだろうかと思う。何がしたいねん、恋愛主体よ。そういう問いである。好きを続けていき、どんどん増長させていくと、その先に待っているのは何だろう。どこかでほどほどにしておかないといけないのではないか。

 まず考えられるのが幻滅。そんなにまで好きであり続けることなどできない、とよく人は言う。いつか自分の思っている対象像が幻であると知るさ、と言う。好きなればこそ、対象を知りたいと思う。知りたいからこそ根堀葉堀対象を調べつくしてしまう。最初のうちは、自分の幻想を肯定するものばかりに目を向けて、その他の事実に目をそむけてというように、対象の要素を峻別していくことで、幻想の崩壊を免れることができるかもしれない。しかし、長く対象を見つめていると、どうしてもいろいろなことが目についてくる。幻想を肯定するものを調べ尽くしてしまったので、幻想を否定する様々なものを見ざるをえないのだ。このような簡単なメカニズムで人は大切な幻を失う。さみしいことだ。

 飽きる、というのもあるだろう。人間の感覚はもともと定常的な刺激に対しては、だんだんと反応が鈍くなってくるらしい。雨音や、電気製品の出す重低音などは、ずっと聞いているといつの間にか背景の中に溶け込んでしまい、そのうち認識できなくなる。大変失礼な言い方だが「美人は3日見れば飽きるが、ブスは3日見れば慣れる」と言う。結局定常的に来る刺激は、あってもなくても同じということなのだろう。まあ、リラックスを求める愛もあるだろうから、刺激を求めるだけが愛ではない。よく長年つきあったつれあいを「空気のような存在」と愛情表現する。でも、なんだかそれは美化している気もする。単になんの刺激も感じなくなったとも言えるじゃないか。

 一方、破滅、というのもある。刺激が定常的になり、飽きてくるのが嫌な場合、取り得る方法として、刺激を強くするというのがある。週に1回何かをしていて、それに慣れてくると週に4回も5回もするようになるかもしれない。それに慣れてくると日に6回も7回もするようになるかもしれない。また、会いたい思いが強いのはいいのだが、24時間一緒にいたいとなれば仕事も辞めなくてはならないし、ご飯も食べられないし、寝ることもできない。寝たら別世界に離れてしまう。精神のエネルギーに肉体が耐えられずに悲鳴をあげるのだろう。そして体力を使い果たして死んでいく。これもやばい。

 このように考えていくと、好きになっても好きになっても結局待ちうけているのは悲しい結末ばかりのようにみえる。というわけでちょっと考えてみた(最近、とても忙しいのでほんとにちょっとだけ)。で、一応の結論(ほんとは考え中)。

 二人のわーるどを作ってしまえば、悲しい結末から逃れられるのではないか。外界から隔絶された二人だけの世界。本来なら社会的なコードによって解釈されなくてはならないものを、二人だけにしか通じないコードによって解釈していくことで、幻滅からも、飽きからも、破滅からも逃れる。
 お互いを天才だ、美人だと誉めあって、他人の解釈を無視し、お互いを幻想の体系の中で評価すれば、ありもしない裏づけによる無限の刺激を得ることができる。裏付けのない、根拠のない自信は無敵だ。もともと根拠などないのだから覆されることなどない(根拠のある自信は、根拠が崩れれば消えてなくなる)。根拠などはなから無視して想定されている幻想は消える契機がない。また、それは無から生まれる幻想のため汲んでも汲んでも尽きることがない。だから、無尽蔵に刺激を高めることもできるし、原料である無を維持するのになんの苦労もいらないから、体力を消耗し破滅していくこともない。完璧だ。

 やはり、死なずに好きでいつづけるには、二人の世界を構築しつづけて、世の中から隔離していくしかないのかなあ。世の中における最も純粋な愛が、しばしば駆け落ちや横恋慕や不倫などの世間から隔絶せざるをえない秘密の交際の中に生じるのは理由のないことではないと思う・・・。




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