顔写真 いまをいきる
曽和利光
元オカルト少年。現リアリスト。しかしロマン派の29歳。祖父と一緒にUFOの目撃経験あり。
仕事は怪しげな人事関連のコンサルティング。 将来は坊さんになりたい、仏教ファン。
「昨日や明日のためでなく今を生きる」を合言葉に、 刹那的に飲み歩く毎日・・・たぶん今日も二日酔い。
 


第6回・偶然バンザイ


 原因がはっきり分からない出来事が起こると、それは「偶然」起こったとこととされる。電車のホームで10年ぶりに高校のクラスメイトと再会したこと、6回連続してサイコロの目が1だったこと、拾った宝クジが当選していたこと、Kinki Kidsの二人の姓が同じであることなどなど、様々なことが偶然として片付けられている。その偶然にどれほど意味を感じたとしても、いわゆる「理性的」判断においては、特に意味のない誤差のようなものとして扱われてしまう。
 偶然はもともとの語義からして、一回限りのものである。何回も起こることは偶然と呼ばれない。何事もたくさん回数を重ねると、偶然はなりをひそめ、全体が一定の法則に従ってしまう。例えばサイコロで、最初に1の目ばかり出ていたとしても、1000回もふれば、だいたいどの目も6分の1ぐらいの確率になる。また、統計の世界は不思議なことのオンパレードで、交通事故死者数や出火率等々の多くの数字が微増微減の範囲でしか変化をしない。一人一人がその数字を目標にして調整しているわけではなかろうに。

 一方、何回も起こる現象は、ちょっと説明がついたり、現象に名前がついたりするだけで、必然なもの・なんの不思議もないものとされる。その説明に使われる理論が、本当の原因結果を示しているというよりは、単に現象を記述しているだけのものであったとしても。
 例えば「暗示」と名前がついてしまえば、そのカラクリがよくわからなくても、なんとなく原因結果を説明しきってしまったように思える。「それは暗示だよ」とかわかったふうな口をきく。でも、言葉をかけるだけで、肉体に変化を及ぼすなんてめちゃめちゃ不思議である。心と体の間には、どうしても破れそうに思えない壁があるのに、実際の現象においてはそれをやすやすと越えて、心と体が相互に関係しあっているということはどう考えても不思議だ。
 皆が「必然」と言う時、想定している「原因・結果の関係(因果関係)」なんて本当にあるのだろうか。実験を繰り返して、何度やっても同じことが起こることを確認した時、それを勝手に法則としてしまい、法則によって表現される関係を因果関係と呼んでいるにすぎない。法則中の法則である物理法則なんて最も不思議なもので「なんでこの係数はこの値なのだ」とか思う。全然意味わからへん。

 偶然も必然も結局「なんでそうなるのか究極的にはわからない」ということにおいては一緒である。むしろ偶然のほうが何らかの意味を感じることが多い。僕は偶然の出会いや、偶然の一致、偶然の発見等々を大切にし、偶然に起こることに身を任せて生きているので、偶然にはかなりお世話になっている。必ず起こる「必然」なんてつまらない上に、全体主義的な感じがする。偶然にこそ神がおり、自由がある。(そこまで誉めなくていいか・・・)




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