顔写真 いまをいきる
曽和利光
元オカルト少年。現リアリスト。しかしロマン派の29歳。祖父と一緒にUFOの目撃経験あり。
仕事は怪しげな人事関連のコンサルティング。 将来は坊さんになりたい、仏教ファン。
「昨日や明日のためでなく今を生きる」を合言葉に、 刹那的に飲み歩く毎日・・・たぶん今日も二日酔い。
 


第1回・悲しき信者


 ぼくは何かにしがみついていないと生きていけない。何も信じるものがなくなったら、きっと生きていけないと思う。小さい頃からいろんなものを信じては裏切られ、でもまた何かを信じてきた。ずっとその繰り返しだ。きっとこれからもそうだろう。

 地獄はあると思った。今でも八大地獄を全部言える。地獄を信じないと、最もきつい阿鼻地獄(あびじごく)に落ちると地獄大辞典に書いてあったので、必死で信じようとがんばった。でも、あれは方便だったそうだ。
 般若心経は全部覚えた。早逝した母の妹の仏壇の前で、祖母が読むのを習った。何回も唱えれば、神通力が身につくあやしい呪文のように思った。皮肉なことに、後から考えれば、一切は「空」であるというのが、般若心経の内容だったのだけれど。
 霊魂は存在すると思った。飼っていた小鳥が死んだとき、手の中に亡骸を抱いて、軽いなあと思った。きっとこれはピーちゃんの魂が抜けたんだと感じた。今でも部屋の中でたまに小鳥の鳴き声が聞こえることがある。単なる幻聴だとは思うが、霊魂のイメージによって、ぼくはピーちゃんを思い出すことができる。
 テレパシーは、きっとあると思っている。今だに遠くのあの人に向かって、思いが伝わるように念じる時がある。長くつきあっていた彼女とは、いろんなことにタイミングがあったような気がするし、誰にも見えないラインによって二人がつながっているイメージはとても魅力的だった。

 信じるとは、根拠のあるものを正しいと「わかる」ことではなくて、根拠のないものを正しくあれと「願う」こと。なぜ、人は信じるのかと言えば、信じることが自分を救ってくれるから。死んだあの子に会いたければ命の連続性や輪廻を信じるだろう。息子を海外に送り出す母親は神社で買ってきたお守りの効力を信じるだろう。どうしても決められないことがあれば占い師に尋ね、そこに現実の行方が知らされていると信じるだろう。

 人はそれぞれの心の中で生きているため、信じている間、それは事実に等しい。彼女が自分のことを好きだと信じられたら、それは本当の幸せ以外のなにものでもない。 自分の将来の有望さを信じられたら、きっと明るい生活を送れることだろう。ただ、それらの信じられているものは根拠がないゆえに脆弱で、周囲の温かい思いやりや、ともにそれを信じたい人々によるお互いの化かしあいによって、不断に支えられている必要がある。
 だから、ほとんどの人は、それまで信じていたものを信じきれなくなる瞬間が来て、信心を捨てなければならなくなる。しかし、何かを信じたい気持ちは変わらないから、その次の対象を求めてはさまようことを繰り返す。そして、たまに振りかえっては「信じていたもの」を遠い目で眺め、名残惜しさと感謝の念を抱きながら泣くのだろう。




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